2022.07.31

「着こなし」ならぬ「住こなし」を考える

「着こなし」ならぬ「住こなし」を考える

よく「着こなし」というが、これは例えば同じ服を着ていても、着る人によって、その服に合わせる靴やバッグやアクセサリーや髪型などの組み合わせで、全く違った印象を受けるものだ。つまり「どう着るか」である。
同じように、建築においても「住こなし」がある。「どう住むか」である。
住まいというのは日常生活がワンパターンにしかならない空間なのか、幾通りかのパターンを生み出す空間なのか、更には住まう人のセンスによっても、その空間は大きく違ってくる。そしてこれは決して機械的な設備面での充実を意味するものではない。
また、日常生活において、不便さを嫌う人と、多少の不便さがあっても“便利”以上の何かを求める人がいる。いや、むしろ不便さを楽しむ人すらいる。それは風流であったり、情緒でったり、生活に潤いをプラス(演出)できる何かである。
私などは後者のような施主と巡り合えれば、設計冥利に尽きるであろう。世界に名だたる有名建築家と称される人々も、このような施主と出会っている人が実に多い。
設計する側より、住まう側のセンスがより一層その建築を引き立て、完成させる。。。
建築とはその様なものだのだ。
2022.07.20

住まいについて

住まいについて

大量生産されていくハウスメーカーの住宅に生活を馴染ませていく人々にとって、日本人の持つ季節感や情緒、文化などは、そう重要な事ではないのだろうか。そんな事より利便性や高機能の追求の方が現実的であるということなのか。

例えば新築の住宅に最新型のシステムキッチンを取り付けたとする。しかしそんなものはすぐに時代遅れなものとなる。まして複雑多岐にわたる余分な機能は便利さを感じる以前に使い方を覚える方が大変であったり、数年たって壊れてメーカーに電話しようものなら部品が無いと言われて修理すら出来ない始末である。
住まいは、そこに住む人と同じように確実に歳を刻んでいく。つまり歳をとっていくのだ。洋服などは流行遅れになれば取り替えれば済む。しかし住まいとなるとそうはいかない。洋服同様、建築も流行だったものが数年の間に何とも言えぬほど見苦しく歳をとっていく。時代の最先端と言われるものほど、時代遅れなものになると考えてよいだろう。

ならば住まいに何を求めるのか・・・。
そこに住む人も年代によって考え方や社会的地位が変わり、やがて夫婦二人、そして一人きりになる。(もちろん例外もあるが)
若くて勢いのある頃、結婚、子育て、子供の進学と冠婚が足早に続き、住まいが狭いと感じられる時期がある。その中で、子育ての時期に住まいを建てる人が多いのだが、ほとんどの場合が子育てを中心にした設計コンセプトとなる。対面キッチンなどはその最たるものであろう。
さて、人生100年時代ともいわれる昨今、住まいはどの年代に着目して設計するのがよいのであろう。
子どもが親離れするのは思っているよりはるかに早い。子どもを中心とした夢のマイホームでの生活が始まったものの、当の子供が進学や就職などで実家を離れていくまで下手したらわずか数年である。そして気が付いたら夫婦二人になっている。ここから先は子供と過ごした時間よりずっと長い。この長い時間に焦点を当てて「住まい」を考えてみる必要があるのではないだろうか。そしてその時、住まいに何を求めるのであろうか。
2021.01.16

日本人が「座る」ということ

このところ異常気象により、昨今では毎年のように日本のどこかで災害が発生している。誠に心痛の限りであり、災害に合われた方々に、一日も早く日常を取り戻してほしいと思う。
そんな中でも注目してしまうのは、避難先の体育館等は大混乱雑しているにも関わらず、暗黙の内に最初に生まるルールが、土足厳禁であるように思われることである。
素足で生活する民族がどれくらいいるか知らないが、風呂にも入れない状態で、最低限寝泊りに必要なスペースを土足厳禁にして床をきれいに保とうとするあたり、まさに日本人の日本人たる所以ではなかろうか。

最近、都心の外国人向けマンションにお住いのお宅を訪問した。
外国人向けということで、生活習慣の違いから土足対応のプランになっており、玄関に靴を脱ぐスペースはない。そこでこちらにお住まいの日本人家庭では、玄関に沓葺きマットを敷くことにより靴の履き替えスペースとし、土足と素足の区分けをしていた。海外への出張や旅行が多いこのご家族も、土足の生活はやはりなじめないといったところか。
土足と素足の切替場所は、これから先も日本人の住宅から排除されることはないだろう。
また、現代では一般的となっている椅子の生活も、私の毒舌をもってすれば明治初期のぎこちない西洋文明のようで、それはちょうど表面を取り繕う鹿鳴館のパーティーのようなものだと思ってしまうのだ。
実際のところ、リビングに設えたソファ等は、腰を掛けるよりも床に座して背もたれに用い、肝心の座面にはたたまれた洗濯物や新聞・雑誌等積んであるのをよく目にする。
腰を「掛ける」寛ぎと、腰を「おろす」寛ぎは、私たち日本人にとって、より後者の方が得やすいのであろう。

食事のテーブルに関しても、食卓の高さはキッチンの作業台との高低差を少なくして、配膳時の立ったり座ったりする行為を省いているだけの事ではないだろうか。
家族が揃う夕餉に一日の疲れを癒し、寛いで団欒する一つの仕掛けとしてこの家具(椅子とテーブル)をとらえた時、はたして日本人にとって椅子式というのはどうなのだろう。(もちろん車いす等での生活は別として)
例えば「鍋を囲む」などは、私たち日本人にとって、家族であれ、仲間であれ、団欒の証しのようなニュアンスがあり、しかも季節感を演出するのにも最適であり、やはりそれは「腰をおろす」という行為がとても似合っている。

話しは少々横道にそれるが、私は「男はつらいよ」の寅さんファンである。
映画の中で食事をするシーンが度々出るが、久々に帰ってきた寅さんを家族がその茶の間の食卓へ暖かく迎え入れるわけだが、あの和やかな雰囲気を椅子式の食卓に求めても無理がある。
日本人は古来より土足と素足を切り替え、腰を下ろす生活をしてきた。
現代では生活の中に椅子があるのが一般的であるが、それでもなお床へ腰をおろしたがる日本人を、私は少し微笑ましく思うのだ。
2019.11.12

一級建築士事務所 株式会社たかつか建築設計事務所の公式ホームページをリニューアルしました。

この度、一級建築士事務所 株式会社たかつか建築設計事務所の公式ホームページを全面リニューアルいたしました。
今後ともサービス向上のため、ホームページの改善やコンテンツの充実に努めてまいる所存でありますので、今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。